灯台150周年とは
2018年11月1日、この日は日本初の洋式灯台である観音埼灯台が建造されて150周年となる節目の日で、海上保安庁主催による記念式典が行われました。式典には当時の天皇皇后両陛下(現、天皇皇后両陛下)がご臨席されたほか、多数の関係者や来賓が列席し盛大な催しとなりました。
日本で洋式灯台が建設されるようになってから150年、その歴史は大変興味深いものです。灯台150周年にあたり、海上保安庁が作成したリーフレット『海を照らして150年~航路標識の歴史と現在~』には、日本の灯台がたどってきた歴史が分かりやすく書かれています。
灯台はその始まりから大変ドラマチックな歴史をたどるのですが、とくに注目したい時期は、日本に洋式灯台が建設され始めた明治初期の黎明期と、太平洋戦争で何もかもを失った日本が灯台を復興し発展を遂げていく戦後の昭和時代の2点であると思います。
『日本の灯台50選』は1998年(平成10年)11月1日の第50回目の灯台記念日の記念行事として海上保安庁が公募し、一般の投票によって選ばれた50基の灯台のことですが、このうち、37基が明治時代に建造された灯台なのです。その中には天災や戦争による被災で建て替えられたり、改築や補強工事が行われた灯台もありますが、明治時代に作られた灯台が現代の人々にどれだけ愛されているかがわかります。
そこで今回は明治初期の黎明期に建設された灯台にスポットを当ててみたいと思います。
日本における洋式灯台の始まり
日本における洋式灯台の黎明期は江戸末期の開国から始まります。慶応2年(1866年)に米、英、仏、蘭の4か国と江戸幕府との間に江戸条約が結ばれます。この条約の締結により東京湾の周辺などに8か所の灯台を設置することが求められました。
当時の日本には西洋式の灯台を建設する技術がなかったため、江戸幕府はフランスとイギリスからレンズや機械を買い入れ、灯台の建設の指導を依頼しました。その後、明治政府がこの事業を引き継いで、フランス人技術者のヴェルニーを技師長とするフランス人の技術者たちにより明治元年(1868年)11月1日から観音埼灯台の建設が始まり、観音埼灯台は日本における最初の洋式灯台となりました。
明治元年から2年の間にヴェルニー率いるフランス人技術者たちは観音埼灯台に続き野島崎灯台、品川灯台、城ヶ島灯台の計4基の灯台を建設します。残念ながらこれら4基の灯台はヴェルニーが建設した当時のままで残っているものはありません。品川灯台を除く3基は関東大震災で倒壊し、その後に建て替えられたもので、品川灯台は品川沖のお台場に明治3年(1870年)3月5日に初点灯した灯台ですが、昭和39年(1964年)にその役目を終えて愛知県の明治村に再建されています。
その後、灯台建設の事業はブラントンが率いるイギリス人技師集団に引きつがれます。
ブラントンは日本に滞在していた8年の間に26基もの灯台を日本全国に建設し、日本の灯台建設技術の基礎を作り上げました。このため、ブラントンは「日本灯台の父」と呼ばれています。
日本灯台の父
日本灯台の父と言われたリチャード・ヘンリー・ブラントンは1841年12月にスコットランドで生まれました。大人になり鉄道会社の土木首席助手として鉄道工事に携わっていた時に、日本政府の灯台建設技術者に応募して技師長に採用されました。
慶応4年(1868年)8月、26歳の時に妻子と技師歩2人を伴って来日、明治9年(1876年)までの8年間に26の灯台、5か所の灯竿、2艘の灯船などを建設し、日本における灯台体系の基礎を作り上げました。ブラントンは灯台以外にも、築地-横浜間の日本初の電信架設や舗装技術による街路整備、鉄道建設や築港計画の政府への提案などで多くの功績を創世記の近代日本にもたらしました。明治9年(1876年)3月、明治政府からの任を解かれたブラントンは帰国し、1901年に59歳で亡くなりました。
コロナ禍で旅に出られない私が今読んでいるのは、日本の灯台の父、ブラントンを主人公にした小説です。
>>文明開化 灯台一直線! (ちくま文庫) [ 土橋 章宏 ]
ブラントンの灯台
ブラントンは日本全国に日本に滞在していた8年の間に26もの灯台を設計・建設しました。灯台の種類は様々で、初期のものは木造が多く、鉄造のものもあります。後期になると煉瓦造や石造の灯台が増えてきます。
ブラントンが最初に建設した灯台は明治3年(1870年)6月10日に和歌山県の串本町に点灯した樫野埼灯台です。江戸条約で定められた8か所の灯台のうちの1基です。引き続き、初代の潮岬灯台、初代の伊王島灯台、神子元島灯台、初代の剣埼灯台、初代の佐多岬灯台の5基が、さらに大坂条約で定められた江埼、六連島、部埼、友ヶ島、佐田岬の5基の灯台が相次いで建設されます。
その間にも、北は北海道の納沙布岬灯台から福岡県の烏帽子島灯台まで明治9年(1876年)3月1日の角島灯台を最後に建設するまでの間、年に3基から4基のペースで全国に灯台を建設していきます。灯台を1基建設するのに平均で2年ほどの時間がかかったので、ブラントンが如何に精力的にこの事業に携わっていたのかがわかります。
残念ながら木造や鉄造の灯台で現存しているものはありません。地震、台風などの天災、戦争による被災が主な要因です。初代の潮岬灯台、石廊崎灯台、納沙布岬灯台、安乗埼灯台、白洲灯台は木造、伊王島灯台、佐多岬灯台、烏帽子島灯台は鉄造でしたが、のちに建て替えられています。また羽田灯台、天保山灯台、和田岬灯台は廃灯になっています。
私が選んだブラントンの灯台ベスト3
26基のそれぞれの灯台の成り立ちを見ると、どの灯台も貴重な文化遺産であることが理解できます。その中でも貴重と思われる灯台を私なりに3基選んでみました。
神子元島灯台
江戸条約により建設された8か所の灯台の一つで、静岡県下田市にあります。明治3年(1872年)11月11日に点灯開始しました。ブラントンが日本で建設した灯台の中で最も費用がかかった灯台で、下田産の伊豆石を精緻に積み重ね、目地には日本初のセメントが使われています。その後、セメントの劣化などによる補強工事が行われましたが、石造灯台としては日本最古の現役灯台で「日本の灯台50選」に選ばれた「Aランク保存灯台」です。また「世界の灯台100選」にも選ばれています。流れの激しい海流の中にある島に建てられた灯台なので一般の人の島への来訪は難しいようです。
神子元島は伊豆半島下田の沖にある無人島で、下田港より船で35分辿り着くことができます。下田に宿を取って、船で遊覧するのが良いでしょう。
>>神子元島灯台への旅【宿情報】
菅島灯台
三重県鳥羽市の菅島海域には岩礁が多く、古くから難破する船が多かったため、江戸時代にはこの地にかがり火を焚いて目印とする「御篝堂(おかがりどう)」が建てられていました。その地に1年半の年月をかけて建設された洋式灯台が明治6年(1873年)7月1日に完成点灯します。この灯台には三重県志摩郡の瓦屋、竹内仙太郎の作った国産の煉瓦が使われており、日本に現存する最古の煉瓦造の灯台で、「近代化産業遺産」「登録有形文化財」の認定を受けています。「日本の灯台50選」「Aランク保存灯台」でもあります。来訪はできますが、中に入って登ることはできません。
>>菅島灯台への旅【宿情報】
角島灯台
山口県下関市にある角島灯台は、ブラントンが帰国の直前の明治6年(1876年)3月1日に完成させた最後の灯台です。彼が建てた灯台の中でも最高傑作とも言われています。日本海沿岸で初めての大型沿岸灯台であることから近年文化的にも歴史的にも貴重な近代化遺産としての評価が高く、総御影石造りの重厚で華麗な灯塔の姿は地域の人からも深く愛されています。灯台のレンズは1等フルネルレンズで日本に5基しかない「第1等灯台」のうちの1基です。灯台の周辺は公園となっていて、灯台に登って景観を楽しむことができるほか、資料室の見学もできます。
>>角島灯台への旅行【宿情報】
まとめ
旅をして知らない土地や建物、文物や食べものなどに触れる時、その成り立ちや由来について知りたくなるものです。灯台もそうした知りたい気持ちを強くする対象物の一つではないかと思います。景観を楽しんだり、灯塔の美しさを堪能したり、歴史に心を躍らせたりすることもできる灯台は、シニアの旅にお似合いの目的地と言えるのではないでしょうか。
私の150年余の灯台の歴史の旅は始まったばかりです。明治初期に外国人技術者の力を借りて建造された灯台たちが、それぞれどのような歴史をたどっていくのか、明治初期の黎明期を終えた後、灯台の歴史はどのように動いていくのか、興味は尽きません。
引き続き、灯台の歴史をたどる旅を続けていきたいと思います。コロナ禍が去った暁には、実際に灯台を訪ねて、その灯台が過ごしてきた時間の重みを味わってみたいと思います。