明治初期の灯台の位置づけ
明治2年(1869年)1月1日に日本初の洋式灯台である観音埼灯台が完成点灯され、この日は日本における洋式灯台の歴史の始まりの日となりました。観音埼灯台は、当時洋式の灯台建設の技術を持たなかった日本で、灯台を早急に建設するために、明治政府が雇った外国人技術者によって建設されました。
フランス人技術者レオンス・ヴェルニーは横浜港開港に伴い、横浜港への大型船舶の寄港を可能にするために、観音埼を始め、野島崎、品川、城ヶ島の4基の灯台を建設します。観音埼灯台と城ヶ島灯台は三浦半島の東端と南端、野島崎灯台は房総半島の南端に位置して東京湾を挟み、品川灯台は品川台場に位置して外国船舶の東京湾への入港を導きました。
フランス人技術者の灯台建設を引き継いだのが、スコットランド人のヘンリー・リチャード・ブラントンでした。ブラントンは「日本灯台の父」と呼ばれ、日本における洋式灯台の基礎を築いた人で、日本に滞在していた8年間に26もの灯台を建設します。
ブラントンはフランス人技術者たちが建設した4基の灯台につづき、江戸条約で日本が列強の要請に応じて建設を約束した樫野埼、潮岬、伊王島、佐多岬、神子元島、剣埼の6基の灯台を建設します。これらの灯台は主に太平洋沿岸に位置し、イギリス、フランスの大型船の定期航路沿いに建てられました。
続いて神戸港開港に伴い、六連島、友ヶ島、江埼、部埼、和田岬5基の灯台を建設します。関門海峡を抜けて、瀬戸内海を通り、神戸港に向かう航路上に位置しています。その後アメリカの要請に従い、米国航路を照らす犬吠埼灯台を建設しました。
このように明治初期に建設された30余りの灯台は、諸外国の日本の港への寄港のために作られたものでした。とはいえ、それはまた日本にとっても重要なことであったので、明治政府は多額の資金を投入して灯台建設を推し進めたのです。
日本人による日本人のための灯台
外国人技術者の手を借りて、諸外国の船舶が日本に寄港するために必要な灯台の建設が進んでいく中で、日本各地から灯台建設への要望が寄せられます。
『ライトハウス すくっと明治の灯台64基 』に寄稿された藤岡洋保氏の「灯台に見る日本の近代」によれば、明治17年(1884年)11月に海軍省と農商務省から、当時灯台建設を管轄していた工部省にあてて、灯台立地の決め方について具申書が出されたとあります。
ライトハウスすくっと明治の灯台64基では、美しく、一級の歴史的資料ともなる写真と解説で、明治期から活躍し現存する64基の灯台を紹介されています。海上保安庁などの協力も得て撮影された写真は、外観のみならず塔の内部や巨大なレンズも満載で、灯台好きにはたまらない一冊です。
具申書には、従来の灯台の立地が外国人や地方官の意向によって決まるきらいがあったことに対する批判が書かれており、今後灯台を設置すべき場所を緊急度に応じて6段階で示したリストが作成されていたそうです。灯台を必要とする人が声をあげたのです。
この翌年には「海路諸標位置調整委員会」が発足して灯台の建設場所を一元的に検討するようになると共に、灯台建設を管轄していた工部省が廃止となり、逓信省が事業を引き継いで委員会が改編されて「航路標識管理所」となります。そうして明治21年(1888年)ごろまでに徐々に日本における灯台建設の体制が整っていきました。
北海道では明治21年(1888年)から明治26年(1893年)にかけて20基もの灯台が建設されます。北海道では灯台の建設を急務ととらえ、北海道自らが資金を出して「航路標識管理所」に建設を依頼します。また各地からの灯台設置の請願もあまた寄せられ、その数は明治26年(1893年)から明治31年(1898年)の間に10件にも上りました。
明治後期に活躍した2人の日本人技師
ブラントンの帰国後、日本の灯台建設は日本人技術者たちの手に委ねられます。その一人が藤倉見達(ふじくら けんたつ、“しょうたつ”としている資料もあります。)です。
藤倉はブラントンの通訳を務める傍ら灯台の知識を学び、明治5年(1872年)から2年間、イギリスのエジンバラ大学で最新の技術を身につけて帰国し、ブラントンの帰国後の灯台建設の主力となって活躍します。明治18年(1885年)に国の灯台建設の最高機関である工部省燈台局長に就任、翌年には工部省に代わって設立された逓信省の灯台局長に就任します。藤倉は当時の灯台補給船の明治丸に乗り込んで全国各地の灯台を視察して回ったとの記録が残っているそうです。宮崎県の日南市にある日本初のコンクリート製の灯台である鞍埼灯台は藤倉が建設した灯台の一つです。
藤倉見達の退官後に灯台建設に力を注いだのが石橋絢彦(いしばし あやひこ)でした。石橋は明治12年(1879年)に工部大学校(東大工学部の前身)土木科を卒業し、イギリスに留学、イングランドの灯台を管理するトリニティ・ハウスのジェイムズ・ニコラス・ダグラス技師長に師事し、灯台の建設法を学びます。帰国すると燈台局に勤務し、北海道を始め多くの灯台の設計・建設を指揮しました。石橋の代表作とも言える灯台が出雲日御崎灯台です。
日本人によって建てられた明治の灯台
それでは日本人技術者が明治時代に作った代表的な灯台をいくつか見てみましょう。
鞍埼灯台
宮崎県日南市の大島に建設された日本初の無筋コンクリート製の灯台で、明治17年(1884年)8月15日に初点灯しました。地元の士族から設置要望書が宮崎県知事に出されて建設が実現し、藤倉見達が設計・施工監督を務めました。日本に設置された灯台としては49番目の日本最古のコンクリート造で、灯塔部が12角形という珍しい形をしています。太平洋戦争の際、6度の空襲で破壊されましたが、昭和26年(1951年)に本格復旧して今日に至っています。
出雲日御崎灯台
島根県出雲市にある出雲日御崎灯台は明治36年(1903年)に完成点灯した灯台ですが、その10年くらい前から地元では帝国議会へ灯台設置の働きかけを行っていました。その請願が10年後に実現します。この灯台を手掛けたのが石橋絢彦です。
塔高約44m、日本で一番高い灯台は、外観は石造りですが、内側に煉瓦の円筒、外側に凝灰岩という石でできた円筒があり、この2つの円筒をバットレスという煉瓦の壁8本でつなぐ、「二重円筒構造」となっています。この構造は高塔の耐震性を考慮して採用されたのではないかという説があります。
実は昭和47年(1972年)に耐震性が不足しているのではないかという理由で、コンクリート製に建て替える計画が浮上しましたが、灯塔振動実験の結果、耐震性に問題はないということが立証されて計画が中止となったいきさつがあります。完成から117年を経た今も変わらぬ姿で立ち続ける姿から、当時の設計・施工の技術のすばらしさをうかがい知ることができます。
水の子島灯台
大分県と愛媛県に挟まれた豊後水道の岩礁の上に、4年の難工事を経て明治37年(1904年)に完成しました。この灯台も石橋絢彦の設計・施工監督によるものです。塔高は41.6mで岩礁の上に建てられた灯台として日本一の高さです。外側が花崗岩、内側が煉瓦造りの「二重円筒構造」となっています。この灯台は海軍の要請で作られたといわれており、広島県の呉軍港から外洋に向かう航路上にあり、太平洋戦争末期には何度も機銃掃射を浴びて破壊され、戦後に復旧整備されました。
灯台建設の海外進出
明治27年(1894年)日清戦争が始まり、翌28年の4月に終結します。この年、石橋は朝鮮半島に派遣されます。日清戦争に勝利したことにより朝鮮半島を航行する日本の船舶が増えたことへの対応のためでした。石橋は同年7月から8月にかけて朝鮮半島沿岸を調査し、灯台を建設するための測量を行います。
続いて台湾に赴き、鹿児島から南西諸島を経て台湾に至る航路の確立と灯台建設に尽力します。明治29年(1896年)11月から翌年の4月までの半年間に鹿児島、屋久島、奄美大島、沖縄、台湾に次々と灯台を建設します。
その後、ロシアとの緊張が高まってくると、再度韓国に派遣されて明治34年(1903年)に仁川港に2基の灯台を建設点灯させます。日露戦争開戦後はイギリスと協力して朝鮮半島沿岸部の灯台整備に力を注ぎます。
明治28年(1895年)4月13日の日清戦争の終結を契機として、日本は軍国主義の道を加速させます。昭和20年(1945年)8月15日の太平洋戦争の終戦ですべてを失うまでの半世紀にわたり、灯台は軍事目的で建設されるのです。
日本人の建てた灯台歴史のまとめ
開国に伴い外国船舶の寄港のために外国人技術者の手によって作られた明治初期の灯台に続き日本人のための灯台の建設に尽力した人たちがいたことを知り、また富国強兵の号令一下、軍国主義の道をひた走る日本がアジアの諸国にも次々と灯台を建設した歴史を知ることができました。
灯台は150年もの間、世界や日本の歴史を見続けてきました。
灯台巡りの旅は歴史を巡る旅でもあることにあらためて思い至り、もっと灯台のことを知りたくなりました。灯台のバルコニーに登って美しい景観を眺めながら歴史に思いを馳せる時間を、また持つことが出来れば素晴らしいなと思います。